スペイン巡礼(カミノ・デ・サンティアゴ)旅日記A
高14期 中川昭治氏

1967年早稲田大学卒
1967-1972年ブラジルBanco America do Sul S/A(南米銀行)に勤務後、世界67カ国放浪
1972年帰国、商社勤務でブラジル、中国、マレーシアなどに延べ12年駐在。2001年退社
趣味三昧の生活を得て
八尾高を昭和37年に卒業してから約40数年、60半ばまで若い頃の放浪癖を封印して、生活のため枠からはみ出ないように働き、ここに来てまた放浪の旅を実行しても許される環境となり、何ものにも捉われず、風の如くフワフワと知らない土地を訪ねてみたい・・・
気に入れば何日もそこに滞在し、飽きたら別のところに移動して行く。
こんな生活がしたくなったのです。
まず手始めに治安の良いヨーロッパに行く事にしました。
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ロンセスバイェスからシラウキ
5月16日〔ロンセスバイェス−ララソーニャ〕
巡礼宿を7時出発。
1時間ほど歩いたブルゲーテ村のバールでボカディーリョ(サンドウィッチ)とカフェコンレェチェ(カフェオレ)で朝食をとる。
小川と牧場と緑の森のあるこの村には、ヘミングウェイが虹鱒釣りに来た時泊まった小さなホステルがあった。
森や牧場を縫って巡礼路を歩く。途中の道端に日本人の墓標をみつけた。
巡礼の途中で心臓麻痺かなんかで亡くなったのだろう、享年64とあった。
自分と同じ歳である。南無阿弥陀仏・・
「巡礼者を祀る卒塔婆のようなもの」
約30km歩き、ララソーニャ村の巡礼宿に到着。この村には巡礼宿は一つしかないので、昨日一緒だった巡礼者何人かも次々とチェックインしてきた。
シャワーを浴び、下着の洗濯をして村を散歩する。
教会を囲むように、巡礼宿と民家が50軒ほど、バール2軒、オステル2軒。
村の端に幅2m位の小川が流れている。放し飼いの犬が数匹 ロバが一頭。人影はなく、静かな村である。
夜は近くの小さなレストラン兼バールで定食を食べる。前菜、スパゲッティ、メインの肉料理とワイン飲み放題で10ユーロ。
7時過ぎからのオープンで、6人位座れるテーブルに定食をオーダーした人はまとめて座らされる。30分も待って8時過ぎやっと案内された。
バールでビールを飲んで待つ間、初老のイタリア人3人男とブラジル人の若い女性、中年のフランス人男性が一緒だったが、お喋りのうるさいこと。
言葉が分からないので余計にうるさく思える。
一人蚊帳の外という気がして、食べ終わると先に宿に帰る。
5月17日〔ララソーニャ−シズールマヨール〕
7時ララソーニャ出発。
本日の道中は平坦な道で気候は良く花が咲き、どの町も村も清潔で美しく快適な散歩であった。
途中のパンプローナはナバーラ州の州都で、サンフェルミン祭り(牛追い祭り)で有名な緑の多い大きな都市である。
町の中央公園の中に古城や大学がある。街路樹の道路につき出したカフェのテーブルで、
東洋人の青年とアメリカ人の老婦人と娘という珍しい組み合わせがコーヒーを飲んでいた。
聞いてみたら80歳近くの老婦人は50歳代の娘とバスを乗り継ぎ巡礼路を歩いているという。
青年は韓国人で兵役が終わり、次の就職までの間にこの巡礼の旅に来たという。
「牛追い祭り」
アメリカ人とはカフェで別れ、韓国人青年とシズールマヨールまで同行し、昼飯を食べに村に一つしか無いレストランに入ると
結婚式の披露宴が始まるところだった。
披露宴の長テーブルから離れた隅のテーブルで、披露宴を見ながらビールと定食を食べる。
5月18日〔シズールマヨール−シラウキ〕
6時起床7時出発。

風力発電用の風車の並ぶペルドン峠を越えて2、3の小さな村を通過し、1時ごろプエンタ・デ・レイナ着。この町で各地からスタートした巡礼路が合流して、サンチェゴまで一本の巡礼路となる。
昔、巡礼者のために女王が架けたという石橋Puenta de Reina(女王の橋)が町の名前になっている。
名所旧跡は実際見るとたいしたことはない。
東京の日本橋みたいなものだ。私は観光地、名所旧跡だけを回る旅行は好きではない。
オランダから来た一人歩きの元教師のおばさんと半時間ほど共に歩く。町の中ほどのバールでおばさんとは別れ、ビールを飲み、今日の目的地シラウキに向かう。

山上の今は廃墟になった古城の下にできた村である。
巡礼宿に荷物を下ろし、シャワーを浴び、下着の洗濯をする。
いつもは夕食まで昼寝(シエスタ)をするが、今日は100mほどの高さにある古城に登ってみる。
平坦な盆地が一目で見渡せた。
今にもドンキホーテがロシナンテにまたがって現れそうな、中世のような景色である。
巡礼宿に戻ると、また、昨日の韓国人青年と出遭った。(続く)
「シラウキの町」
*写真はスペイン政府観光局の提供です*
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